『シーザーの埋葬』
 
 
 レックス・スタウト
  (光文社文庫)
 
 1939
 本格ミステリ
 
 
【ネロ・ウルフのおでかけ】
 
 いけ好かない同好の士に目に物をくれてやろうと、蘭の品評会に出かけた名探偵ネロ・ウルフだったが、アーチーの運転する車が突然のパンク、傍らの木に激突するという災難に見舞われる。二人に怪我はなく、大事な蘭も無事だったが、車はとても直せる状態にはなかった。近隣の家に援助を請うべく、歩き始めた二人は、近道をしようと牧場を横切ろうとするが、そこには全米一の巨大な牛《シーザー》が土を掻きながら待っていた。
 ニューヨークでレストランチェーンを展開している財産家から、夕食と一晩の宿泊を得たウルフだったが、《シーザー》を巡る争いに巻き込まれてしまう。その夜、アーチーが番をしている牧場で、人間の死体が発見され、傷の形状などから《シーザー》の仕業であると断定されるのだが……。
 ネロ・ウルフシリーズ、第六作。
 
 
 趣味に全身全霊を傾けるネロ・ウルフらしく、彼が外出するには二つの理由がなくてはならない。一つ目は美食にありつける場合(『料理人が多すぎる』)であり、もう一つは本作のように蘭が関わっている場合だ。
 車の悪魔の機械をと呼び、アーチーの運転する車の後部座席で、身体を硬直させながらつり革を握っているウルフの姿……想像するだに可笑しいが、きっと作者のスタウト自身も輸送されている名探偵の姿から笑いと哀愁を感じながら書いたのだろう、シリーズの中でもコメディの要素が強い作品となっている。
 事故のエピソード以上に面白いのが、その直後に訪れる《シーザー》と邂逅するシーン。本作を読んだ人たちならば確実に首肯いてくれることだろう。自らのキャラクターを、銅製でぴくりとも動かぬ歴史上の人物や、ヨーロッパからアメリカへ移民としてやってきた人たちが目にする象徴のごとく扱い、笑いを誘うスタウトの諧謔は格調高く、また意地が悪い。そして、そこが面白い。シーザーと対峙するネロ・ウルフと、一つの大きな岩との関係性は、それだけで格別だった。
 
 本作には、以降の作品に登場して、翻訳者の大村美根子氏曰く《安定した関係》となるリリー・ローワンが登場している。
 当初は、悪し様に言われ、知ることのできる過去の風聞から察する限りでは、アーチーをして《見え透いた女性》と軽く見られる彼女だが、本当にそうなのかは物語が進むにつれてわかること。エラリー・クイーンの『ハートの4』に登場するポーラ・パリスほどの強烈な印象はないが、アーチーのウルフに対する悪ふざけに同調したり、ウルフから「わたしは女性を嫌わないが、好きにもならない」という台詞を引き出すあたりは、他の作品における抜群の存在感が垣間見えてくる。
 
 犯人探しの本格ミステリとしても、暗示的なウルフの台詞から意外な犯人に到達するまでの論理が、質実かつ奇抜に練り上げられ、簡単にまとめられている。もちろん、巨大な牛《シーザー》が犯人なのではなく、ウルフは状況や珍しいことに自ら目にした事実を基づき、人間の犯行であることを看破している。
 そこからはお馴染の、犯人を心理的に追いつめ、罠にかけて証拠を掴むという、探偵の手法を駆使し、ウルフ一流の捜査を展開してくれる。
 メースンの『矢の家』に登場するフランス人探偵アノーとウルフは、性格や動きはまったく異なるが――このフランス人は、様々な動作で見せ、そこに意志や感情を込めるという、文字通りに劇的な存在である――手法の面では類似している。その意味からは、ネロ・ウルフはアノーの直系でもあるといえるだろう。
 となれば、アーチーはアノーの劇的な部分を、皮肉やユーモアたっぷりの独白という形で引き継いでいることになるが、先達たるフランス人の劇的な部分が、構造上においても必然の存在であるに対して、アーチーのキャラクターは必ずしもそうといえない。しかし、アーチーの語り口こそが、このシリーズ最大の魅力なのだから、絶対に欠かすことはできないわけで、彼の軽口が聞けないネロ・ウルフシリーズはあり得ない。
 
 何か味のあることを言ってやろうという性分であるアーチーの語り口には、善意や悪意にしろ、好意や嫌悪にしろ、拗ねた面白さがある。これを時代的と感じて観賞に堪えないとしてしまうか、それとも、軽妙と喜んで愉しめるか、大きな違いが生じてしまうところだろう。
 アーチーの語りには、余計な一言が付け加えられることがあり、これが効いている。例えば、劣悪な留置場からようやく開放され、着替えをするシーンが可笑しい。喰えない彼の性格がよく現れている。
《三時五分前きれいな衣服をきれいなからだにまとい、もちろん心はきれいなままで、僕は荷物やら何やらの(以下略)》
 彼と他のキャラクターとの絡みも格別で、特に経験との丁々発止のやりとり、女性とのお互いを探り合うような会話が魅力的だ。
 
 だが、最も重要なのは、ネロ・ウルフとの関係に他ならず、雇い主である名探偵との会話こそが、アーチーが最も生き生きとする瞬間でもある。
 他者に対して常に負けることを知らないネロ・ウルフに対峙して、勝つことはないが負けることもないのは、アーチー・グッドウィンくらいのものだろう。ウルフの毒舌も軽くあしらい、常に減らない口を披露している。
 またこのシリーズ特有の構造上、絶対的な役割を担っているウルフ――彼だけが既に早い段階で犯人の名前を知っており、証拠を掴むために行動している――に、最も近い存在としてアーチーがいることも見逃せない要素だろう。ウルフの次に、真相に気付きつつあることを自覚しながら、アーチーはウルフの指示に従って動き続ける。読者は、アーチーの軽やかな足取りを追いながら、誰よりも先で安楽椅子に腰掛けている天才の背中を追うというわけだ。
 
 もう一つ本作では、物語的に事件へと巻き込まれる形になっているため、他の作品ほど窮地に立たされることのないウルフだが、事件の真相に気付かないまま事無きを得ようとしている警官らを説得するために、自ら時間的な制約を設けている。これで、シリーズ特有のコン・ゲーム的な体裁を整えているのだが、大金を用意する必要に迫られ、はたまた命を狙われ、国家権力から目の敵にされることに比べれば、危機の要素は薄い。
 だからといって、本作の欠点がここにあるわけではない。ウルフが外出しているという特異な状況、そこから生まれるコメディが、この事件をシリーズの中でも珍しい雰囲気の中で進行する、余談的な面白さを醸し出す結果となっているからだ。
 
 他のシリーズ作品を読んでネロ・ウルフのイメージを形作ってから、本作を手に取ることをお薦めしたい。きっと一層のこと、彼の巨体が生むシルエットと背景とのコントラストから、可笑しさと哀愁が見て取れるはずだ。
 
 
 

(2004年1月現在、品切れのようです)

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