『矢の家』
 
 
 A・E・W・メースン
  (創元推理文庫)
 
 1924
 本格ミステリ
 
 
【必然性の絶品】
 
 フランスはディジョンで暮らす富豪の婦人ジャンヌ=マリ・ハーロウが死に、遺産はすべて養女ベティに遺される。遺言書の内容を知った義理の弟ワベルスキーは、遺産を相続できるとの目論みが外れ、恐喝の手段に出るが失敗する。しかし彼は、ハーロウ夫人が毒物によって殺害され、その犯人は養女であると警察に告発した。
 ベティから援助を請われた顧問弁護士のジムは、ロンドンからパリに訪れ、名探偵として名高いアノーと面会する。折りしもディジョンでは、謎の手紙による邪悪な脅迫事件が横行しており、幾人もの自殺者がでていた。脅迫事件に怒りを感じていたアノーは、名目上ハーロウ家の事件を捜査するためにディジョンに赴くので、ジムにも協力して欲しいと申し出る。
 本格ミステリの黄金期を代表する絶品の一つ。
 
 
 フランス警視庁の名探偵アノーが、その劇的な探偵法を駆使し、相克するのは二つの事件。表面上は穏やかなディジョンの街では、卑劣な男が親族を告発するだけでなく、謎の差出人《鞭》によって、手紙という姿を借りた悪意が猖獗を極めていた。特に後者は、アノーが憤慨しつつ必ず犯人を捕えると決意して見せるほど凶悪な事件で、すでに老人、一組の男女、若い娘が悲劇的な自殺を遂げている。富豪の婦人が毒殺されたという告発が、《鞭》による恐喝事件とどのような関連を見せるのか。見どころの一つとなっている。
 
 アノーという人物は、イギリス人が描き出すフランス人という前提から察せられるように、デフォルメされたキャラクターの持ち主として描き出されている。
 彼は表情が非情に豊かで、微笑が現れたり消えたり、いぶかしがったかと思えば次には残念がってみせる。目の表情も多彩だ。この探偵には、自分が見られていることを十分に意識し、表情や所作を創ってみせる傾向がある。
 このことは、メースンの作風に直結しているだけでなく、この作品の成功に繋がっている、非常に重要な部分なので、なるべく丁寧に考えておきたい。
 
 まず、メースンはミステリ以外を扱う小説家であり、劇作家であるという事実が、非常にわかりやすく、描き出されたアノーの性質を示している。
 劇作家メースンは、登場人物の心理をそのままに記述するということをやらない。《嬉しそう》とだけは書かないし、《憤っている》だけで済ますような野暮なことはしていない。
 アノーだけでなく、他の人物も含め、メースンは人物の所作を表現してみせることで、その時々に人間が抱えている気持ちを表現している。顔の表情だけでなく、瞳の動きと言った微細な部分から、体全体を使った動きに至るまで、アノーたちは記述されているのだ。
 
 例として、アノーのユニークさを表現するエピソードがある。急に椅子から立ち上がった彼は、自分のオフィスにも関わらず、抜き足差し足で歩き出し、ドアを勢い良く開いてみせる。笑劇に登場する俳優の動きをコピーしてみせているシーンで、劇的なやり方、自分が如何に見えているのかを意識する、独特の探偵法と性格が読者にはっきりと提示されている。
 もちろん作品全体に共通して使用されている表現の技術であるだけに、枚挙に暇がないのだが、もう一点だけ前半部分で描き出されているエピソードを挙げておくとすれば、ベティがアノーに対して椅子を勧めることを忘れているシーンがある。アノーから指摘され、失礼があったとベティを顔を青白くする。傍らで一連の動きを見ていたジムの所感も合わせて記述されることで、ベティがおかれている状況と彼女の性質、あるいはジムの観察とアノーの警官としての態度に至るまでが、絶妙かつ端的に表現されている。
 何気ない光景、珍しくもない記述だが、作品全体に通底してる必然性が、ここにも存在していることが、作品を読み終わり見直すとより一層深く理解される。
 メースンの才能を論じるあたっては、無視することのできない数行であり、逆説的にいえば、たかが数行からその才能を論じさせるメースンの才能は非凡であるということができるだろう。
 
 つまりメースンの才能とはどのような物なのか。単純に言えば彼は、外的なエピソードを記述することにより、キャラクターの内的な心の動きなどや、外部に置かれている自己の状況といった客観的な視点が、読者に対して的確に表現してみせているのだ。
 演劇的な立体感を想起させる、もしくは視覚的な表現方法であり、外的な要素によって描写される心理がキャラクターが造形される。
 メースンの想像力豊かに空間を作りだす才能――俳優から劇作家となった経験と無縁ではないだろう――、文章力の確かさが端的に表れ、作風にも直結しているのである。
 メースンという作家は、限られた領域を立体的に切り取り、さながら舞台装置のようにも感じられる手狭な空間に人物を配置して、様々な所作を連続させる、このような作業を繰り返すことで、物語を形作っているようにも思えてしまうが、本人はどのような印象を抱きながら創作していたのだろうか。
 
 メースンが表現してみせたような心理描写は、現代にあって、もっと評価されるべきではないだろうか。近代的なミステリを見ると、どうも先に野暮と述べたような直接の表現ばかりで書かれており、外面が内面を兼ねる所作が伝えるコミカルさ、ユーモア感覚といってもいい部分が、あまりに見受けられない。
 それとも、メースンような作家こそが、類い稀な存在なのだろうか。
 
 この作家は登山を愛していたらしく、登山を題材にした小説を著しているという。本書にも、その傾向が現れている箇所がささやかながらにあり、ジムはモンブランに何度も挑戦した登山の愛好家とされている。
 アノーの案内で、ジムがパリを一望できる展望台に昇り、モンブランを遥かに望み、また事件現場となった館を見下ろすくだりがあるが、作者本人の趣味が、ミステリ好きという以外に露骨に現れているのは、この山岳趣味くらいのものだろう。文中には、劇作家も、ロマンス文学作家も目立って出てこない。ミステリを書くミステリ作家は、作中に同業の士を出すことが異様に多いように思えるが、メースンは自重したか、興味がなかったらしい。それとも、他の作品には、登場しているのだろうか。
 
 このシーンは、山岳趣味を満足させるだけでなく、アノーだけが館を観察し、重要なことに気がつくという、名探偵だけに許された特権を披露する場ともなっている。同じものを見ているはずのジムだが、観察したのではなく見ているだけで事実に気付かない、というシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンさながらの関係性を作ってしまう。もちろんアノーは、何に気がついたのか口にしない。後に明らかにするまでは自分だけが知っているという状況を維持し続けるこのやり方は、先達たるホームズとの共通点が見えてくる。二人とも劇的なやり方が好きなのだ。
 
 またアノーは捜査の途上において、意図的に見ないという逆説的な捜査を行い、自分だけが知っているという名探偵の特権をさらに誇示してみせる。自分だが観察して知っているだけでなく、自分だけが見ることもしない。
 これこそが、《心理的探偵法を駆使する》とアノーが評される所以である。どうして彼が重要と思われる事物を見なかったのか? 後に披露される論理のアクロバットを嫌が応にも期待してしまう、上手い演出でもある。
 
 物語上の演出面ということでいえば、ジムとアノー探偵との関係性を変化させていることにも意味がある。
 若くて真面目なジムに対して、お追従を喜んで受け取るようなアノーは、出会った当初から少しばかり嘲笑的な態度をとることがあった。最初は腹を立てていてジムだが、アノーの熱意や才能、見え隠れする好意を感じるにつれて、この友人にどう対応すればいいのか覚えてしまう。
 ホームズ&ワトスンの構造が不変であるのに対する、メースンなりの抵抗であるとも考えられる。
 だが、最も意図されていることは、二人の関係性を変化させることによって、時間の経過を表現するということだろう。初めて出会ったときの印象とは、まったく違った感情を持つジムの姿があることで、読者も以前を思い出し、現在との差に気付き、時間の経過を感じることになる。きっと、二時間や三時間で終演となる舞台において時間の流れを表現する、演劇的な手法なのだろう。
 このように、二人の関係性が変化すること一つをとっても、物語を演出する必然性が伴っている。作品の完成度の高さがうかがえるというものだ。
 また、ジムの真面目な性格にも、几帳面に事件の問題点を並べたメモをとり、伏線や手掛かりといった、フェアプレイに欠かせない提示されるべき情報を、読者にわかりやすく示すという必然性がある。
 
 高い必然性によって物語られる『矢の家』だが、それを創造したメースンのストーリーテリング力は、ちょうど起承転結の転に相当する佳境の部分で、探偵たちにさながら『空き家の冒険』のごときアクションを用意していることからも評価できる。心理的な闘争だけではなく、舞台のあるサスペンスも用意されているのだ。
 
 いかに素晴らしい作品かは、これまでに述べたことからも伝わっているとして、『矢の家』を本格ミステリとして愉しんだ場合には、残念ながら難として気がつく箇所もあることに言及しておきたい。
 1924年という時期に書かれた作品であり、本作は確実に30年代以降の本格ミステリの様式美とでもいうべき基準を形作ったものの一つだが、犯人が一人という基準に厳格ではないのだ。あくまで、収束された悪意の持ち主は一人なのだが、犯行には多くの人間が関わっている。
 また、犯人が何者であるのか、その選択肢が多くはないということもある。
 様式美という話でいえば、犯人が判明してからが長いことを挙げてもいいだろう。エンディングは簡潔で美しいものだが、論理の鋭敏なことを伝えるには長すぎる。極端に短いA・A・フェアのような作風のほうが珍しいのかもいしれないが、エラリー・クイーンが披露する推理などよりも、ずっと長いのではないか。
 いずれにせよ、後年の読者が親しむ本格ミステリの基準が確立される前の作品なのだから仕方のないこと。難といっても、それほど大きなものではなく、作品を愉しむ上での支障となるとも思えない。
 逆に、1930年代以降のフェアプレイありき――犯人は一人、との基準や前提もここに含まれる――のミステリよりも、20年代に書かれた作品たちのほうが、ずっと自由で様々な作風が謳歌した時代であったということもできる。
 様式美が形作られる前の、混沌した状況こそが、本格ミステリのプロパーではない作家たちによって書かれた絢爛たる長編ミステリを花開かせた、豊かな土壌となったのだろう。
 1920年代という大いなる時代が、どれほどの意味を持っていたのか、『矢の家』のような絶品を読むと気付かされる。
 
 性格描写の確かさからくる人間味とペーソス、そしてユーモア感覚の巧みさ、他に例を見ない独自さを持つ、探偵と犯人が交わす心理的な戦いに目を奪われる、ものの見事な作品。
 
 
 

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