『ゲスリン最後の事件』
フィリップ・マクドナルド
(創元推理文庫)
1959年
本格ミステリ
【狙いは派手に】
リストにある10人の住所を調べてもらいたい。詳しい理由を告げないまま、知人の警察高官に調査を頼んだ作家エイドリアン・メッセンジャーは、アメリカへと向かう機の墜落事故により還らぬ人となった。
後日、メッセンジャーのリストに記されたメンバーが、いずれも事故によって死亡していることが判明し、彼の乗っていた飛行機の事故も爆発物によって引き起こされたことがわかる。
果たしてリストの10人も、事故を装って殺害されたのか? 彼らを繋ぐ関係性は?
年齢を重ねたゲスリンが、大量殺人の謎に挑む、最後の事件。
都筑道夫氏は、『黄色い部屋はいかに改装されたか』で、マクドナルドについてこう述べている。
《フィリップ・マクドナルドの長編は、狙いは派手なのに、展開の仕方が地味なせいか、『鑢』と『消えた看護婦』ぐらいしか訳されていませんが、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイを考える上で、書かせない作家でしょう。つねに完結にいたる論理を、第一に重んじているからです》(筆者注『鑢』は創元推理文庫で読めるマクドナルドのもう一つの作品で、『消えた看護婦』は『Xに対する挑戦状』のタイトルで国書刊行会から出版されている。)
さすがに泰斗、的を得た意見だと思う。
モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ、つまりは1930年代以降の近代的な探偵小説――言い換えれば、論理的な真相の開示とそこに至るまでの記述にフェア・プレイを欠かせてはならないという、長編ミステリ――の基準ができあがるまでに、マクドナルドの創作活動が少なからず貢献していることは間違いない。
1920年代までの、主に短編を中心とした本格ミステリしか存在していなかったミステリから、サスペンスやハードボイルドいった新たなジャンルが確立されるまでの間、そしてその後も連綿と引き継がれ現在に至るまで、本格ミステリにおいて論理とフェア・プレイの基準は揺らいでいない。確信犯となった作家たちの所業を除いては……。
《狙いは派手》という指摘は、端的に作家の特徴を言い当てている。1924年に『鑢』によってデビューしたマクドナルドは、デビュー作を書いた動機として後にこのような発言を行っている。
《自分にも書けるばかりでなく、もっと巧くできることを世間に示すため(略)》
旧来の作品に飽き足らず、創意に富んだ彼は、新たなミステリを書いてやろうと、筆をとったというのだ。以降の創作活動を見ても(創元推理文庫『鑢―名探偵ゲスリン登場』の解説に詳しい)、彼のアイデアが豊富なことには驚かされる。新作には新しいアイデアを盛り込み、趣向に凝る傾向がはっきりとしている。まさしく、《狙いが派手》たる所以だ。
この作品は、『鑢』から35年が経過した1959年に発表された。イギリスに生まれたゲスリンは、母国でデビューした後、アメリカへと渡ってハリウッドで映画産業に関わり、帰化していたことがわかっているが、その職歴はあまり詳しく伝えられていない。『ゲスリン最後の事件』は、あまり本格ミステリを書かなくなっていたマクドナルドが、最後に書いたゲスリンシリーズの作品であり、作家としても最後の長編作品である。
それだけに、マクドナルドの技術は老練の域に達しているといっても、過言ではないし、反対される向きも少ないだろう。技術に頼りすぎる嫌いがあるともされるマクドナルドだが、本書に施されている演出は過度なものではない。ハリウッドでの経験が、大きく影響したと思われる、映画的、映像的な推理小説となっている。
最も映画的な演出の影響を強く感じさせる点は、カットバックの手法が取り入れられていること。これにより、死んだエイドリアン・メッセンジャーの周囲に、彼を狙っている殺人者の姿があったことが、周囲の誰にも気づかれることなく、ただ読者の目にだけ明らかとされる。ゲスリンの捜査が進むにつれて、謎の殺人者はほぼ名無しに近い《スミス・ブラウン=ジョーンズ》と呼ばれ、度々、姿を現す。
読者にとっては、謎のスミス・ブラウン=ジョーンズなる人物が、犯人らしいことはわかるのだが、如何に大量殺人に関わっていたのか? という謎解きをゲスリンに期待しながら愉しむこととなるわけだ。
映像的なカットバックの手法は、演出的には過度なものではなく、エピソード間に謎の人物を垣間見ることで物語的興味もしまっていて効果的なのだが、この作品を諸手を上げて本格ミステリと言い切ることができなくなる難点の原因ともなっている。謎の男として提示しなければならなかったばっかりに、フェアな犯人捜しの要件である、作品の前半部分に犯人を登場させる、ということが欠けてしまっているのだ。あくまで謎の男として登場させなければならないので、容疑者の一人としての紹介を行うことは不可能、他の登場人物として重複させて登場させることも行われていない。純然たる犯人探しの本格ミステリとしては愉しめないのだ。
元から映像化されることを前提としていたのか明らかではないが、この作品は映画化された。映像作品の中では、スミス・ブラウン=ジョーンズ氏の姿がはっきりと示され、他の登場人物と重複していないことが、目で見て明らかとなる。本格ミステリというこだわりも無用となるわけで、小説においても本格ミステリというより犯人を追うサスペンス、映画としては本格ミステリ趣味の横溢するサスペンス、となるのだろう。こう考えると、この作品は、やはり映像化を前提としていたのではないかと思えてしまう。
ゲスリンの推理、ダイイングメッセージ、10人の事故死亡者のリストといった要素も、本格ミステリ趣味のサスペンスというマクドナルドの趣向、もしくは派手な狙いに加勢するためのものなのだろう。
あくまで、この作品は犯人らしき男の姿を垣間見せるというアイデアありきの物語であり、そこに魅力的な謎と論理性を伴わせたところに、マクドナルドの才能がある。
ゲスリンの変化と警察の記述も目立っていた。
『鑢』の頃からすれば、随分と年齢を重ねた感のあるゲスリンは、大佐から将軍となって地位も変わっているのだが、それ以上に自信が年寄りであることを強く意識してしまうという、歳の取り方をして変化してしまっている。あまりぱっとしない失敗もあり、さらには、寄る年波などと一人愚痴たりするくらいなのだ。論理のアクロバットが披露されるわけでもなく、随所で見せる論理くらいしか見せ場が用意されていない。
警察は、警官が慢性的に足りていないという集団としての弱い部分を指摘され、高官は予算が足りないと愚痴り、税金を使っているから避難されても仕方ないとしおらしいことを口にさせられている。
これは、現代的な記述と呼べるのではないか。少なくとも『鑢』に登場する警官たちは、このような悩みを持たされてはいなかった。あくまで、強者として、一人の素人探偵などよりもずっと高い行動力の総意を有していた。そうでありながらも、卓抜した推理力を展開する名探偵に打ち負かされてしまう。警察という権威が破れ、強者よりも先んずるという勝利に、探偵と一緒に読者も快感を感じていたはずだ。
けれども今回にいたっては、同情されてしまうほどの展開に見舞われる。探偵であるゲスリンが警官たちと全面的に協同戦線を張っているという設定があるからだが、1920年代の本格ミステリ黄金時代に比べ、1959年という時代においては、社会的な警察への意識というものが変化していたのかもしれない。
本格ミステリとしてふるいにかけるのであれば、やや残念な点に気付かされずにはいられないのだが、犯行の本格ミステリ的な大胆さは、アクロバティックなアイデアであり、他の本格ミステリ的な装飾もあってか、表面上は本格ミステリにしか見えない不思議なミステリとなっている。
映像を見させられるわけはないのに感じさせる、映像的な趣向をミステリに持ち込んで、最後の作品としたマクドナルド。幻の作家といわれている彼だが、いつも通りの《派手な狙い》を成功させ、本格ミステリ的な要素で幻惑させるような掴み所のない構成で、最後まで読者を楽しませてくれた。
再評価され、多くの作品が読めることを期待して待っているファンもきっと多いことだろう。
僕も含めて。
(2004/01/20現在、この作品は品切れのようです)