『超能力者が多すぎる』
パトリック・A・ケリー
(創元推理文庫)
1986年
ミステリ
【フクロウ、幽霊、超能力者】
奇術師対超能力者の構図は、19世紀の《偉大な男》フーディーニが、超能力者(心霊術者)たちと対決したというドラマチックな史実もあってか、アクションからミステリ、ホームズのパロディに、コナン・ドイル翁との友情を描いたものまで、実に多くの小説に使用されている。
本作品の主人公は、偉大なる先達と同じファーストネームを持つ、ハリー・コルダーウッド。超能力キラーのような仕事をしていたときに、苦杯を舐めさせられたイカサマ師オズボーンから、強制的に以来を引き受けさせられる。
ある女子学生の失踪事件に、高名なる超能力者が借り出され、その透視結果にオズボーンらしき人物が重要参考人として映ったという。サイキッカーを引退した人間が、現代の高名なる超能力者から怪しい人物として指定されるという皮肉めいた事件。ハリーは、渋々ながら、失踪事件解決のために、捜査を開始する。
疑わしいのは、預言者ヴァージニア・ポーターが、彼女がいつも行う予言以上の正確さをもって、引退した同業者らしき人物像を透視していること。これは、彼女の流儀には反している。
さらには、依頼主であるオズボーンも食えない人物であり、ハリーには信頼できるような協力者がいない。大道芸でその日暮らしをしている彼には、親しい土地も友人もなく、相棒と呼べるような人物も登場しない。そのために、ずっと一人で淡々と法律違反の捜査活動を続けていく。ホームズ物なら、ワトスンが一度は止めたのち、騎士道精神を発揮して、二人して正義の名の元に凶行を謀るところだけども。
素人探偵が主人公のミステリでありながら、孤独な捜査を進めるあたりは、80年代のアメリカミステリであることを感じさせる。探偵とパートナーの会話を中心に、謎が解明されていくのではなく、主人公の単独行動が世界を少しだけ変えていく、ハードボイルド的な設定といっては、過ぎる単純化だろうか。
失踪した女子学生は、「ハロッシュ」という謎の言葉を残していた。家族によれは、それはゲームの一種であるという。なんとなく麻薬めいた響きを持つ単語だが、その正体が明かされて、怪しさは雲散霧消してしまった。ここでの怪しさは、魅力や謎と同義であるとしてもいい。正体見たりで、がっかりとしてしまった。
犯人だけでなく、被害者もまた、論理的に動いていることが、本格ミステリになくてはならない要素の一つとなっている。名探偵と呼ばれるキャラクターたちは、時には犯人は誰なのか? という命題から離れて、いったいこの被害者は誰なんだ? という逆説めいた思考を持っている。被害者の行動は、たいていの場合、犯人によって行動を制限、あるいは支配されているが、被害者が犯人を動かすという逆説のトリックを用いた傑作を書いた作家もいる。
作者のケリーは、奇術に造形が深いという。奇術師の友人も多いということで、当時の新しいマジックが披露されており、その記述がなかなか面白い。残念ながら、当然ながら、種明かしはしない。
謎解き小説としてはゆるい。動悸となる、犯人が持つ信念の限定には、あきれさせられた。一定のルールに基づく世界が形成されている本格ミステリではなく、論理のアクロバットもない。他の作品には、本格的なモチーフ――死体にピエロのメイク――を用いているということなので、機会があれば読んでみたい。
(2004年2月現在、この作品は品切れのようです)