『家蠅とカナリア』
ヘレン・マクロイ
(創元推理文庫)
1942
本格
【本格ミステリの過渡期を象徴する傑作】
原題は《Cue for Murder》、本格探偵小説の黄金時代が終焉を迎えてから間もない1942の作品で、版元の創元によれば、ヘレン・マクロイの初期を代表する作品として紹介されている。
縦横に、かつ巧緻に張り巡らされた伏線が帰結する、『ひとりで歩く女』のようにサスペンス色の強い作品を書く作家として紹介されることが多いように感じるマクロイだが、本書は本格ミステリらしい作品となっている。もっとも、『ひとりで歩く女』も本格ミステリであり、マクロイの書く作品はすべてが本格ミステリである、とする意見も述べられている。
マクロイが、その作風において、変遷を重ねてきたことが、様々な印象を読者に伊高さているのだろう。
《cue》の意味は、切っ掛け。本書は、演劇の世界を舞台としたミステリだが、cueとは演奏や演技の開始を告げる合図を意味する言葉(キュー)でもある。
表紙のデザインには、大きく《cue》の三文字が踊る。この言葉には、二重の意味が込められている。すぐに思い当たる向きもきっと多いだろうが、もう一つの意味については後に。
本文を読み進める前から、翻訳が深町眞理子氏であることが嬉しかった。心理分析学舎ベイジル・ウィリング博士を主人公とするシリーズだけに、深町氏は適任だろうと思ったからだ。
『アンネの日記』にしろ、クリスチアナ・ブランドの諸作にしろ、天才や巧者によって描写された人間心理を訳してきた実績は、浅学ながら当代きって並ぶものがない仕事であると言いたいところであるし、さらにシャーロキアンとして続ければ、深町氏が訳したシャーロック・ホームズ(創元推理文庫『シャーロック・ホームズの事件簿』)が、日本語で読める最高のホームズ譚だと思っている。
原文を読む人とは意見を異にする部分もあるかもしれないが、マクロイと深町の組み合わせは、理想といっていいのではないだろうか。
本を手に取った時点で期待したこと、そして、読み終わってみて、さらにその意を強くしたことも書いておきたい。
多くのミステリに対する的確なコメントでも知られる作家アンソニー・バウチャーは、前書きでマクロイについて、このようなことを述べている。
ウィリング博士という探偵は、《ドッペルゲンガーとうテーマをみごとな心理的手法で処理した長編『暗い鏡の中に』にとどめをさす》難事件を持つ。
探偵をヘレン・マクロイという作家、難事件を傑作と言い換えれば、マクロイの代表作が『暗い鏡の中に』であるとされていることになるが、バウチャーは本書にも強い愛着を持つという。
この意見には、大いに首肯きたいところだ。
続いて探偵の紹介と作家について。
先に触れたように、本書が舞台としている1940年代は、第二次世界大戦が勃発して間もない。物語の始まりから登場している主人公のベイジル・ウィリングは、移動中の飛行機内に届いた戦況と悲劇を伝えるニュースに心を痛めている。彼は、先の大戦では衛生兵として参加した経歴を持つが、現在は地方検事局に精神分析の碩学として協力を求められるという立場にある。年齢は四〇を少し過ぎたあたり。
翻訳者が深町眞理子氏であり、主人公のウィリング博士は精神分析学者、また、彼の創造主たるヘレン・マクロイという作家の特徴……以上のことから察するに、『家蠅とカナリア』というミステリが、心理面に重きをおいた本格ミステリであることは、本編を読み進める以前の段階において、すでに想像に難くはないし、それが間違っているとも思えない。
心理面に重きを置いた本格ミステリとは、アントニイ・バークリーが黄金時代において提唱した、新しいパズラーの形のことで、酷く単純に言ってしまえば、物証から推理して解明に至る三段論法の論理的なパズルから――この構造を持ったミステリは、多いようだが、正確に実践してみせた作品は少ないと思われる。代名詞的な傑作であり理想であるのは、エラリー・クイーンの『オランダ靴の謎』だろう――、行動とそれに向かわせた動機を明らかとすることにより、犯人像を絞り特定するプロセスへの移行となる。
マクロイは、クイーンのように、作風を変化させ続けた希有な作家であるらしいが――翻訳ではあまり多くの作品を読むことができないので、体験としてはわからない――、初期の傑作である本書において、バークリーの提示に見事に呼応するかのような長編本格をものにしていることからも、新奇や変化については、真面目で寛容なスタンスを持ちながら書き続けた作家であることがわかる。
本書が、心理面に重きを置いた本格であることは、ウィリング博士の捜査手法が描かれるに至って、明らかとなる。彼は、犯人の動機を追及する。ここでの動機とは、行動の理由の意味がある。さらに、物証からの推理によって、犯人像を特定するという論理も見せてくれる。
断言してもいい。
本書は、黄金時代に確立された長編本格の論理的なスタイルを継承しつつ、それ以降の新しいミステリのスタイルにも踏み込んだ、ミステリの過渡期における代表的な作品であると。
以上の理由から、ミステリ史において、非常に重要な作品と思えてならない。
ウィリング博士が挑む謎は、公演中の舞台上で、死に体の人物を演じていた人間が、実際に殺害されてしまう殺人事件。その前日には、近隣の刃物研磨店に押し入った者が、何も盗まずに、ただ籠に入れられていたカナリアを逃がす、という事件が起こっていた。
カナリアを逃がした泥棒について伝えた新聞の小さな記事と、友人との再会という偶然によって、劇場を訪れたウィリングは、舞台上で実行された殺人事件を知らずのうちに観劇していたことになり、事件の捜査にも関わるようになる。
何も盗らずにカナリアだけを逃がした人物の意図は、どこにあるのか? カナリアの意味、店の仕事、あるいは店舗の場所などから、様々な可能性が考えられる。
シンプルだが、可能性を多く持つ、事件の初期に提示される謎としては、非常に優れたものとなっている。
この事件では、被害者の胸に刺さっていた外科用メスにたかっていた家蝿が、血のついた刃にではなく、柄に引き寄せられていたという事実から、さらにもう一匹の生き物が、謎を提示する。
本格ミステリに多大な貢献を果たしたことから、敬意を払ってその名を借り、《バークリー以前と以後の探偵手法スタイル》なるものがあるとすれば、ウィリング博士という探偵は、そのどちらをも自然と兼ね備えた探偵であるということができる。カナリアと家蝿が提示する謎を、バークリー以前と以後の探偵手法を、双方とも駆使して解いてしまうからだ。
あるキャラクターが、ウィリングについてこう語る箇所がある。
「あっというまにそれとこれとを足して、答えを出してしまう」
推理を褒め称えられた演繹的なこの名探偵は、評に相応しい見事な推理を見せてくれる。ある人物の行動を観察することで、その履歴や経験を言い当ててしまうのだ。さながら、シャーロック・ホームズの職業当てといった面白さがある。
カナリアと蝿が、過渡期にあった本格ミステリを新旧をそれぞれが象徴しているのだが、ひとまずそのことはあまり考えずに、謎解きを楽しんでもらいたい。
マクロイの類い稀な文章力にも注目してほしい。レトリックを多用する文体で、外見からそこに潜む内面について記述されているのが特徴か。とにかく、本格ミステリでは見られることのない筆力であると思う。癖があるので、同じような風合いの文章は、日本では評価されないか、もしくは、ここまで書ける作家が存在していないのではないか。
例えば、シュールレアリズムの作品を文章で再現してみせるシーンがある。文学的な、表現の野心を持った作家なのではないかと感じさせられた。冬を「玉葱方ドームのそびえるロシアの空」と表現して、夏を「夾竹桃とミモザという夏めいた」と表現する、簡素な比較を通した演出にも好感を持った。
ペダンティックな一面も持ちあわせている。アメリカ人の作家である彼女にとって、ミステリでもお馴染なペダンティックであるところの、シャークスピアやイギリスの詩人たちを引用することはないが、先のシュールレアリズムについて、また栄光を勝ち取った舞台役者について、主人公のウィリング博士が専門とする精神分析学について、含蓄のあるところを見せている。それほど深く、マニアックな知識ではないが、よく調べあげたうえで書いているのだろう。
シニカルなユーモアといった気質の持ち主であるらしいことも、彼女の文章を読んでいると伝わってくる。事実の予見と実現された事実という繰り返しを、はっきりと書いているからだ。人は、これから起こるであろう事実を予見するが、実現された事実というのは予見とは異なるものとなることも多い。しかし、稀に、一言一句一致してしまうこともある。外れたほうが可笑しいか、当たってしまったほうが可笑しいか。おそらくは、後者のほうが可笑しい。未来とは? という問いに対する正答はあり得ないだけに、そのような意外性を提示する作者の気質が探れるようでもある。
劇場の建物、それを囲む路地、ビルとビルに挟まれた空間で目線をふと空に上げる、舞台の裏側でせわしなく動いている役者たち、そこから観客席へ移動した瞬間にもたらされる世界を異にする感覚……登場人物や物語の主な舞台となる劇場について紹介しながら、マクロイは見事な筆致によって描写してみせる。舞台上で俳優が演技を始めてからは、役者の力量について描くことを通して、三人の容疑者について深く記述している。ある者は、熱狂的な無批判に支えられ、またある者は、真の芸術を体現している、そして、どちらでもない者も存在する……といった具合に。
あえてマクロイの文章に比肩しうる作家を挙げるとすれば、『矢の家』を書いた劇作家E・W・メースンの名前を思い浮かべた。ただし、メースンが人物を動かすことによって、その心理を演出してみせたのに対して、マクロイは心理によって動かされる人間という演出を行っているという大きな差異はある。
しかし、本格ミステリにおいて、人間心理を演出して記述しきった、卓抜の文章となると、けっして多くはない。この二人は別格に数えられるべきだ。
カナリアと家蝿という謎に対して、非常にウィリングらしいといえる解明が用意されている。問題の解が優しい難しいに関わらず、結末が探偵らしいというのは、名作の条件ではないだろうか。
ミステリとしての構造と、キャラクターの造形が見事に融合することでこそ、謎の解明という良質な物語が創造しえるからだ。
最後に。《cue》という言葉は、ヒントや手掛かりという意味を持っている。
bk1の書籍詳細ページへ