歴史探訪「堺」第2弾 (平成211129()

「チンチン電車」の沿線

 

昨年に引き続き「堺」を探訪、案内役も昨年と同じく11 航空の堺市在住、岸谷会員が担当した。

元来「堺」は、歴史の舞台に絶え間なく出現する世界的歴史都市である。何に注目するかで見えてくるものが異なり、種々の探訪を可能にする歴史模様豊かな都市なのである。

今回は、近世から近代にかけて興味ある「断片的な歴史」を探訪することになった。何故断片的か、それは「チンチン電車」を主役に、その沿線にある歴史的遺跡を探訪したからである。

 

平成211129日(日)午前10時に、阪堺電気軌道株式会社「天王寺駅前駅」に集合したのは、総勢28名、同窓会会員とそのご家族、近畿偕行会の大先輩方であった。

前日までの天気予報の雨が、嘘のように絶好の行楽日和に変身、案内人始め参加者の日頃の行いの良さが現れたのだろうか。

古くから大阪と堺を結んでいる歴史的路面電車「阪堺電車」、通称「チンチン電車」に乗って、その沿線の歴史を探訪、乗車券は何と1日乗り放題切符600円の「テクテク切符」でした。

「テクテク切符」の日付擦り出し作業() チンチン電車()

 

阪堺電気軌道の沿革

明治33年に馬車鉄道として営業運転を開始したのが最初で、明治40年に電化したのが阪堺電気軌道の前身である。その後、合併、分割、譲渡を繰り返し、経営者も次々と移り変わる数奇な運命をたどった。戦時中の大阪大空襲でも相当な被害を被ったが立ち直り、戦後、天王寺、浜寺公園駅前、恵比寿町、平野、大浜海岸等を結んで、大阪―堺の動脈として活躍した。しかし、自動車時代を迎えて徐々に縮小し、現在は、天王寺または恵比寿町と浜寺公園駅前を結ぶ2路線に集約して営業している。大阪、堺の主要な交通動脈ではあるがやはり経営は楽でなく、現在堺市部分の廃線もオプションに挙げられている。全国で次々と路面電車が廃止されるなか、明治時代からの路面電車として、また旧式車両が現存して運航されている路線として、全国的にも貴重な存在になっている。現存する日本の路面電車21路線の一つとして頑張っている。堺市としては主要な交通であると同時に貴重な観光資源でもあり、何とか存続を望んでいるところある。

今回の探訪で、たまたま乗り合わせた電車は、昭和3年製造、大変旧式の車両に乗ることができた。ラッキーであった。この車両には速度計がなく、また、昔「チンチン」とベルを鳴らしたロープを通した穴が車内の隔壁に残っている懐かしい車両に乗車が出来、木造の古式豊かな車体に大満足であった。

運転席の計器類()、昭和3年製造車両表示とロープ穴()

新旧の「チンチン電車」が交差する珍しい光景

最初に降車した駅「住吉公園駅」は、大正時代に建設されたものがそのまま現存、その駅名の看板が右から横文字で表示されていたところも、歴史を感じさせて趣のある光景であった。

 

住吉大社

海の神である住吉三神(底筒男命:そこつつのおのみこと、中筒男命:なかつつのおのみこと、表筒男命:うわつつのおのみこと)と息長足姫命:おきながたらしひめのみこと(神功皇后)を祀り、住吉大神社(すみよしのおおがみのみや)ともいわれている。西暦200年に神功皇后により開祖され、古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使、遣唐使の守護神とされている。何とラッキーなことに20年に一度の「式年遷宮」の直前に訪れたため、新旧社殿の合体風景を見ることができた。ただ、有名な反り橋(通称「太鼓橋」)が1週間後の126日まで通行止めで、渡ることが出来ないのが残念至極であった。126日から、新社殿が新反り橋を渡って拝観できる。

新らしくなって朱色も鮮やかな「反り(太鼓)橋」

徳川家康が、大阪冬の陣において貢献した大阪城北側の佃村の漁師たち30数名を、江戸開幕時に江戸に呼び寄せ、佃島に住まわせたと言われており、その時に移り住んだ漁師達によって分祀されたのが東京佃島の住吉神社で、そこでは2年に1度、大阪本社同様の御神輿の御渡りがあり、佃島地域住民総出でお祭りすると聞いている。

この住吉大社大鳥居前で、関西防大同窓会々長の田川睦夫氏から参加の皆さんに挨拶があった。

観光地図眺めながら岸谷氏の説明を聞く()、田川会長の挨拶()

 

高須神社

高須神社駅」を降りて、すぐのところにある。堺の鉄砲鍛冶 芝辻理右衛門(しばつじ りえもん)は、大坂冬の陣で徳川家康から500丁もの鉄砲製造を命じられ、直ちに納品した。その功績が認められてこの地を授けられ、鉄砲鍛冶の繁栄を願って高須神社を建立したと伝えられている。御神体は、稲荷ということで通称「高須のお稲荷さん」と言われている。そして、全国でこの神社だけが「じんしゃ」と濁らずに呼ばれる不思議な神社でもある。今は、寂れてお参りする人も少なく社殿も色あせて見えた。

黄色の鳥居が珍しい高須神社(たかす じんしゃ)

 

鉄砲鍛冶屋敷

江戸時代から続く鉄砲鍛冶 井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗を外部から見学した。町家建築として最古の部類に属し、鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして、市の指定有形文化財になっている。残念なことに現在も住民が生活しているため非公開で、外見のみの見学となった。しかし、テレビ、新聞等で頻繁に報道されている有名かつ貴重な外観は見ることができた。

居住中のため非公開の旧鉄砲鍛冶屋敷()、立て看板()

ところが、ところが、何と、案内人も初めて知った「堺鉄砲館」なる看板の上がった旧屋敷があるのを見つけた。「無料」の表示に釣られて入ったところ、市のボランティアの懇切丁寧な説明と実演があり、驚くやら喜ぶやらの大変な体験であった。「鉄砲鍛冶」の生活、商売、生き残り戦略、等々の興味深い説明を30分に渡り堪能した。しかも、本物の火縄銃各種を実際に手持ちする貴重な体験をさせてもらった。思わぬお土産となった。

堺鉄砲館入口()、ボランティアの説明を受ける参加者()

鍛冶の実演()、火縄銃 射撃法の解説を熱心に聞く()

火縄銃の名称図()、火縄銃の「支え銃」が凛々しい原田氏()

 

山口家住宅

建築年代は大坂夏の陣後、新たな堺の町が形成された直後と考えられる。豪商住宅の豊かな暮らしを彷彿とさせる江戸前期の町屋例として極めて貴重で、堺衆が建物に贅を凝らした名残を見ることができる。国の重要文化財でもある。

山口家表玄関()、土間でボランティア・ガイドの説明を聞く()

贅を尽くした木材の天井()、一枚板の縁側()

紅葉に映える風流な飾り()、珍しい形の庭の蹲()

ちなみに、案内人(岸谷 宏氏)の戦前の実家もこれとほぼ同じ邸宅であったが、先の大戦の大阪、堺大空襲で全焼、今は当時の「石室」と「井戸」を残すだけとなっている。

 

菅原神社(天神さん)

堺の浜に漂着した菅原道真自作の木像を祭ったのがはじまりとされている。天神さんと呼ばれ「堺戎」としても有名で、毎年、戎祭り「えべっさん」では大勢の人で賑わう。1677年築とされる絵様肘木の組物を用いた楼門は府指定有形文化財となっている。また、夏のホタル観賞でも有名である。

菅原神社の楼門

 

開口神社(大寺さん)

行基が念仏寺、空海が宝塔を境内に建てたことで「大寺」とも呼ばれている。塩土老翁神、素盞鳴神、生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社です。大寺縁起絵巻、伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は、国指定の重要文化財となっている。

また、ここは案内人の出身高校、府立三国が丘高校の発祥の地として、また府立泉陽高校の発祥の地として碑が建立されている。特に、泉陽高校の碑には、女優「沢口やす子」の名が彫られていた。また、案内人の先祖が寄進した石燈籠の碑文も確認できた。

石灯籠には寄贈者「岸屋 伊兵衛」(案内人 岸谷氏の先祖)の刻名

 

宿院屯宮

住吉大社と大鳥神社のお旅所(御神輿が移動時に御休みになる処)を拝見した。そして、ここでも案内人の先祖が寄進した石造りの禊ぎの手水鉢に記名表記のあるのを確認した。

昼食はこの公園内のベンチで心地よい秋風の下、紅葉を眺めながらの喫食となった。

 

浜寺公園駅(駅舎)

駅舎は現在の駅名に改められた時から現存するもので、2007年には建造から100年目となる私鉄最古のもので、辰野金吾博士が設計した木造平屋建ての洋風駅舎である。柱や梁を表に現したハーフティンバー様式で造られている。ここで参加者全員の記念撮影を撮った。 

歴史的な駅舎()、その前で参加者全員で記念撮影()

また、ここで我々の大先輩である陸軍士官学校出身(近畿偕行会会員)方々の自己紹介もなされて交流を図った。

陸士55 原田氏、60 永盛氏、仙幼49 田川氏の自己紹介

 

浜寺公園

明治6年太政官布告で日本最古の公立公園の一つとして開園した。浜寺町周辺は白砂青松で有名な海水浴場で阪堺線の駅前で、別荘地と言うこともあり、堺市北部の大浜公園と並ぶ一大レジャースポットだった。その後、県令 税所篤が松を伐採して住宅地にしようと計画したが、大久保利通が計画に反対する歌「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり 」を詠み、当初の計画は廃止においこまれた。これは『小倉百人一首』にある祐子内親王家紀伊の「音に聞く高師の浜のあだ波はかじや袖の濡れこそすれ」の本歌取りであり、その際に詠んだ句が園内に「惜松碑」として建てられている。

浜寺公園内に建てられた「惜松碑」

 

また、かつて園内には数件の料亭が営まれており、堺市出身の与謝野晶子が与謝野鉄幹と親しくなった歌会も行なわれた。現在は晶子の句碑のみが存在している。戦時中は第四師団司令部、外国人俘虜を収容する施設が建てられていた。

園内には、ロシア兵の霊を鎮める銅像と小泉純一郎首相とロシアプーチン大統領の書名が入った石碑が建っており、参加者全員でお参りした。この碑の説明を書いた市のパンフレットには、次のように記されている。

「日露友好の像」 

「日露戦争は、両国に多くの戦死者をだした。しかし両国は、戦争捕虜を博愛処遇するハーグ国際条約を守り、明治政府、国民は、日本に連れてこられたロシア人捕虜をあたたかく迎え、ここ浜寺一帯から泉大津市にかけて捕虜収容所がつくられ32000人余の捕虜を収容した。所内には信仰の自由を認めて教会、パン工場が置かれた。この像は、日露戦争100年を迎えるにあたり「泉州21世紀協会」を始め多くの有志によって2002521日に建てられた。」

横にある碑には、小泉首相、プーチン大統領の文章が刻まれている。その由来について書かれた堺市作成のパンフレットの説明を案内人が読み上げた。

「日露友好の像」前で、岸谷氏の説明を聞く参加者

なお、この地で亡くなった捕虜は大阪府泉大津市春日町の「春日墓地」内で「ロシア兵墓地」として埋葬されている。

 

およそ半日に渡って探訪した「歴史探訪 第2弾」は、この浜寺公園で仮解散とした。このあと、「浜寺公園駅」から早々に南海本線で帰る人、阪堺線「妙国寺前駅」で下車して「堺伝統刃物館」を訪問する人、途中解散の参加者が抜けて、最終の阪堺線「天王寺駅前駅」での解散は午後4時半であった。

(文責;#11岸谷、監修;#7 中)