Spitz 『空も飛べるはず』

作詞・作曲 草野正宗 from CD『スピッツ/空の飛び方』
1996 POLYDOR


 『空も飛べるはず』(スピッツ)を初めて聴いたとき、ああ、詩の才能が音楽に流れている、と僕は思った。
 現在、詩や小説の他に、映画、ゲーム、アニメなど創作の多様化が進んでいる。ところが、日本の創作をする人々の数は、多様化したからといってアメリカのように増えはしない。頑張っても、47県が51州にはならないよね。また、表現方法の選択が増えても、才能の数は比例して増えないように思う。たぶん。増えれば楽しい世の中になるのだろうけど・・・・。
 詩や小説の世界から音楽やゲームの世界へ、才能が流れているに違いなく、おそらく、各メディア同士で才能の奪い合いが起こっている。お金が稼げる世界に能力のある人が流れるのは止められないし。

 『空も飛べるはず』の詩は、比喩も言葉の選択も稚拙だけどアーティストの感動を伝える「言葉(詩)の力」がある作品だと、僕は思う。
 稚拙と書くと語弊があるね。ごめんなさい。「運命」を「神様」。「不安定な気持ち」を「隠したナイフ」など、比喩が簡単で分かりやすいと言った方がいいかも知れないです。
 しかし、比喩が簡単だから、ヒットもしました。ここを勘違いして文学すると「通好み」にはなるけど、大部分の人はそっぽを向くに違いない。
 大好きな人と出会った結果、空だって飛べるはず(何だってできる)、という前向きな考え方にも好感が持てる。「ハズ」という表現も、いい。草野氏の詩は、暗そうに見えて実は明るい気分に満ちていて、スピッツのファンは、そんな草野氏の優しい世界に共感しているのかも知れない。
 
 ボーカルの草野氏が、詩の世界を追求していないかと言うと、僕はそうではないと思う。これはCD『スピッツ/空の飛び方』を聴くと感じる。
 例えば、「迷子の兵隊 黒い旗振る いばらのなかで」(『迷子の兵隊』)は、「ある朝 僕は 空の 中に、黒い 旗が はためくを 見た」(中原中也『曇天』)を彷彿させる。ポップスの歌詞というより、まるで近代詩のようだ。また、二つの詩は、音と言葉で遊ぶ感覚は、かなり近いように思う。中原氏と草野氏を比べるのは強引だけど、両作品は感動を伝える手段に詩を選んだかポップスを選んだかの違いなのだと、僕は思っている。
 目指している世界も時代背景も違うのだから、ここでは両作品の優劣を問題にしているのではないです。

 桑田佳祐氏の話で恐縮だけど、詩と「音」の世界にこだわった『愛の言霊〜Spintual message〜』(CDサザンオールスターズ『ヤングラブ』)は、興味深い。この作品のミュージックビデオは、見た人に音と詩と映像が迫ってくる。まるでドラッグのようだ。ビートルズのミュージックビデオ『Strawberry
Fields Forever』や『Lucy Sky In The diamonds』のような作品。頭文字がL.S.Dで問題になった、やつです。もちろん、ビートルズのメンバーは、誤解だと説明しているけどね。
 『Lucy Sky In The diamonds』のミュージックビデオが発表された時、着想の新鮮さに世界中のアーティストが驚いたものだそうです。そんなことを考えながら、両方のミュージックビデオを比べて見ると面白いかも。
 さらに遡って、音と色と言葉の倒錯といえば、創作(詩)の世界では『母音』(アルチュール・ランボー:1854〜1891)を、僕は思い出す。有名な「Aは黒、Eが白、Iは赤、Uは緑、O青よ、母音らよ」で始まる、あの詩だ。「アーは黒」とフランス語読みをします。
 当時は、映像表現の技術が無かったから、ランボーは文字だけで 作品を表現している。当たり前だけどね。でも、もし、現在、インターネットに彼が参加したら、どんな作品を見せてくれただろうか?などと、つい考えてしまう。
 歴史に「もし」はないから、詩を書くサイトが頑張ってくれると、僕は嬉しい。いろんな試みが、あるはずだから。

 などと考えながら、『愛の言霊〜Spintual message〜』のミュージックビデオを眺めていると、僕は「これは現代日本版『母音』なんだ、と思った。でも、作品としての完成度は、試みの域を出ていないのが惜しい。それから『愛の言霊〜Spintual message〜』の詩が、フランス語っぽい発音というのも面白いよね。
 桑田佳祐氏は相変わらず、やってくれてます。

 モーツァルトだって、生前はポップスの作曲家としてヒット曲を作る努力をした。奥さんのコンスタンツェも、彼をはやり歌の作曲家だと思っていたようだし。ところが、死後200年たてば作品はクラシックである。同時代の人には作りたての作品は熱すぎて評価が難しいため、モーツァルトでさえ高い評価は得られなかった。もっとも芸術家という観念が当時は無かったのかも知れないけど・・・・。
 草野氏の作品も100年経てばクラシックだ。もしかすると、草野氏の作品の先に、未知の文学や音楽があるのかも知れない。今は、まだまだだけど、彼が消えてしまう作家かどうかは、これからの作品作りによるハズである。

 というわけで、スピッツは、ここで止まって欲しくないバンドだと、僕は思っている。
 この先に未知の詩(うた)や文学があるということを信じて、作品を作り続けて欲しい。スピッツを知らない文学好きの人は、ぜひ、聞いてみてください。もちろん文学なんてどうでもいい人も。
 おそらく彼らは、日本のはやり歌も捨てたものではないと気づかせてくれます。スピッツは、そんなバンドです。

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