
多くの言葉で説明するより、映像の断片を散りばめた詩の方が気持ちいい。
昔、チェッカーズが歌っていた『涙のリクエスト』1984年(古くてごめんなさい)の詩は、そんな詩だった。
例えば、
「最後のコインに祈りをこめて、ミッドナイトDJ。ダイヤル回すあの子に伝えて、まだ好きだよと。トランジスタのボリューム上げて、はじめて二人」という、詩である。
コイン、ダイヤル、トランジスタラジオ、と映像の断片を散りばめ、ボリュームを上げるという誰もが持っている感触の記憶で迫る言葉が並ぶ。コピーライター出身の売野雅夫氏の作詞だから、言葉選びで勝負するのは自然だけど。
知り合いにアイドル歌手の作詞をしている男がいて、
「プロが作りましたという詞は、もう、いらないんだ。僕が気合い入れて作ったアザトイ仕掛けイッパイの自信作が採用されなくて、ビールを飲みながらフラフラ書いた作品が、『いいよぉ』なんて言われるんだ。それで気づいたんだけど、たぶん、ちょっと下手な、素人っぽい詩の方が、いいんだと思うよ。コピーライター出身が、ビシっと決めた詩なんて必要ないんだ(彼はコピーライター出身の作詞家である)。できれば高校生でもアイドルでも書けるという詩が、いい」と、言っていた。
つい言い過ぎたり、考えすぎたりするろ、人には伝わらないようなのだ。
さて、エレファント・カシマシ『今宵の月のように』はどうかというと、舌を巻くとは言わないけど、そのへんのバランスがいいと思う。
「ポケットに手をつっこんで歩く いつかの電車に乗って いつかの町まで 君のおもかげ きらりと光る 夜空に 涙もでない 声も聞こえない」(「今宵の月のように」より)
と、誰もが持っていると思われる過去の記憶の断片を散りばながら、その人だけの(エレファント・カシマシのじゃなく)情景が頭に浮かんでくる。
一見ぶっきらぼうな素人っぽい詩が、リアルに心に飛び込んでくる。
映画の話しで恐縮だけど、北野たけし監督の作品が、頭の中にダイレクトに飛び込む文体(映画に文体なんてあるとすれば)を、好んで使うように思う。状況を説明しながら、順序良く、そしてテンポ正しく見せて納得してもらうより、とにかく、見る人の感性に訴える場面をぶつけてくる。そして、極力説明を省いて、臨場感のある映像で物語を構築する。まるで、ハリウッドのアメリカ映画である。初めから、観客がセリフなんて聞いてないと思っているように、彼は撮っているように思う。
例えば、こんな場面。主人公(北野たけし)が、病院に誰かを見舞いに行くシーン(ごめんなさい。タイトルを忘れました)。何故、主人公は病院に行くのか?面会した女性との関係は?など、通常しなければならない(しないと気持ち悪い?)ハズの状況説明を、北野監督はすっとばす。
なんの説明もなしに、主人公は病院で分けありらしい女性と会う。そのシーンがなぜ必要なのか説明は、一切ない。ないけど、観客には、漠然と主人公の人間性が伝わってくる。おそらく脚本家は、細かいディテールを考えている(もしくは書いている)と想像はできるけど、北野監督は、そんな理屈を省いて観客にぶつけてくる。
いろいろ言葉で説明をすると、かえって伝わらないのが分かっているかのようだ。
エレファント・カシマシも、そんな「力技」を持っていると思う。きっと、二人とも余計な説明が作品を殺すことが分かっていて、「くだらねぇ」と呟く才能があるのかも知れない。こう言うのって格好いいな、と思う。