森高千里論

「B面に恋をして」
 


 森高千里の詩を評価する声は、よく耳にする。
 確かに森高氏以前、エッセイを書くように自由な作詞をするアイドルはいなかったように思う。そんな文章は、イメージが膨らまないため歌になりにくい。
 例えば、「寒い朝、ベッドの横で目覚まし時計が鳴る。今日も一日が始まるわ。会社に行く朝は、わたしご機嫌ななめ」なんて詞では、作曲家はそのまんまやないか、と怒るだろう。

 しかし、こうした歌詞で作曲を試みた作家は、結構いた。
 例えば、「今日も元気だご飯がうまい」と歌ったのは大瀧詠一氏。確か『ナイヤガラ音頭』だったと思う。大瀧氏が作詞する曲は実験的な詩が多いようだ。また、レコードのB面で遊ぶアーティストの作品には、実験的な詩で溢れていた。それは面白かったし、刺激的だけど、ヒットを狙える作品ではなかった。B面ではないけど、初期森高氏の詩を彷彿させる松本伊代『TVの国からキラキラ』(1982年 作詞・糸井重里 作曲・筒美京平)のような作品もあった。つまりこの分野は、森高千里氏だけの世界ではなかったのである。

 ある日、CDの登場でレコードのB面が存在しなくなった。

 アーティストたちは、突然、B面で遊ぶことが出来なくなったのである。
 かつてのB面は、裏面ではなく2番目の曲になり、僕たちはCDのスイッチをOFFにしない限り最後まで曲を聞く。録音だって、途中で切らずに全部入れる。裏日本が無くなったように、レコードの裏面も消滅した。

 CDの登場と、森高千里氏のブレイク時期は重なる。
 詩で遊ぶ森高氏作品は、CDに向いているのだと思う。以前なら、『勉強の歌』や『私はおんち』などは、B面に入った曲だろう。A面が『17才』B面が『勉強の歌』とかね。CD時代になって、シングルのB面は、アルバムで発表されるようになったのではないか?シングルの2番目の曲は、かつてのB面の匂いが少ないようだし。この辺が、まだよく分からないのだけれども、アルバムもCDに変わったことによる影響が強かったように、僕は感じる。詳しい人がいたら、ぜひ、聞いてみたいです。

 僕たちはB面の曲をお目当ての曲のオマケぐらいに感じていた。当時の価値観だと、A面『勉強の歌』B面『私はおんち』を選んだら、両方B面と言われただろう。
 CD『非実力派宣言』などはB面オンパレード集限定版としてプレスされた、かも知れない。おっと、これは言い過ぎですね。でも、当時と今とでは価値感が違うから、森高作品のアプローチは違っていたハズだと言うことです。
 
 でも、独特の詩を書かない、歌手「森高千里」だけでは、魅力はないのだろうか?

 昔、深夜の東名高速を走っていると、AMラジオから新人アイドル歌手の曲が流れてきて印象的な声の持ち主に出会ったことがあった。
 曲名は現在でも不明だけど、それは、とても素敵な声を持った女の子だった。当時、売れていた白井貴子風の女の子が飛び跳ねるように歌うイメージが、心に残った。知らないアイドルだけど、いい声で歌うなぁと思った。
 ところがその歌手が、「森高千里」だった。
 そのAMラジオは沢山のアイドル歌手の紹介をしていたけど、印象に残っているのは森高千里氏の声だけだった。

 現在、歌手としてより、むしろ作詞家として注目されている彼女だけど、僕は「森高千里」の魅力の本質は、声にあると思う。それ以外のファクターは、時代の巡り合わせによって生まれたのではないだろうか。CDなどの環境が、彼女の作品を多様なものにしたのかも知れないけど、本来は声質で勝負している歌手だと、僕は思う。
 例えば、『夜の煙突』(作詞・作曲 直枝政太郎)を聞くと、そんな声の魅力がはっきりする。森高千里氏の作詞じゃないけど、この曲はよい作品です。


森高千里 album『非実力派宣言』レビュー
(違う角度で書いた森高千里です。声ではなく、詩から)

 『非実力派宣言』は、三人称で書かれている作品だと思う。
 詩を書いているのは基本的には森高本人だけど、視点がどこか第三者的なのだ。作詞家、森高千里が『タレント森高千里』に詩を提供している、と言えば分かるだろうか。当時の作詞家森高千里は、ちょっとした遊びの精神をちりばめながら、タレント森高千里に作詞を提供していた雰囲気を持っていた。
 
 高速道路を走りながら聴いたラジオから流れてきた声が、彼女との初めての出会いだった。確か新人アイドル歌手特集だったと思う。顔も分からない新人歌手だったけど、どんな娘だろう?と思わせる印象的な声質の持ち主だ。曲は、どこにでもありそうな歌謡曲だけど、何人もの新人歌手の中で彼女の声が心にひっかかる、何かがあった。深夜のラジオから流れてくる、印象的な女の子の声って、妙に惹かれるものもあるし。
 その後しばらく僕は「彼女」を探してみたけど、それが誰なのかは発見することができなかった。沢山いる新人歌手のひとりを声を頼りに、その娘を見つけるのは難しい。
 余談だけど、女優の鶴田真由が似た声質を持っているように思う。やはり彼女が無名の頃(僕が知らなかっただけかも知れないけど)に出演していたCMで、歌手になったらいい線いく声を持っているかも、と森高千里に出会った時と同じような記憶がある。鶴田真由が、いい歌手になるとは言えないけど、声にはかなりの資質があると、僕は今でも思っている。声が弱いと、曲作りの才能が抜きんでているとか、何か別の要素が必要になってくる。
 その後、次第に森高千里がブレイクし、過去の作品に接する機会も増えてくると『非実力派宣言』以前のアルバムに、あの時のラジオから流れてきた声の持ち主を発見した。森高千里だった。
 アイドルを辞めて?作詞家になった彼女は、どこかつきはなしたような視点で、ワガママな女の娘や馬鹿な女の娘を演じながら、詩を書くようになった。聴いていると、それが微妙に分かるのが、知的でさえある。『私はおんち』『これっきりバイバイ』『勉強の歌』なんかが、そんな作品群だと思う。
 とにかく、三人称で詩を書く文体と文法を、彼女は発見した。きっかけは、想像するしかないけど、アイドルという出発点が森高には上手く作用したのかも知れない。彼女も『タレント森高千里』を売るスタッフのひとりだから、自然に三人称という視点が生まれたのだろう、と僕は考えている。
 この作詞方法が、アイドルの世界では新鮮だった。
 『非実力派宣言』は、そんな作品が詰まっている初期のアルバムである。タイトルも、どこか違う場所からつけたような、突き放したようなネーミングだ。その後に発表した『ミーハー』や『古今東西』も同じスタンスで作られていると思う。
 ところで最近、森高千里の視点が揺れているように感じるのは、僕だけだろうか。おそらく94年に発売された、『ステップバイステップ』あたりから。作品の視点が、次第に『本人森高千里』と『タレント森高千里』が重なりつつあるからではないだろうか。
 三人称ではなくて、一人称の視点が、次第に混じり始めている。アルバムのタイトルが『ステップバイステップ』なのも、そんな気持ちの現れからかも知れない。
 もっとも彼女に「成長したからよ」と言われたら、返す言葉がないのだけど・・・

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